CRIME OF LOVE 7
 

 去ったら、彼はここには二度と戻ってはこないだろう。切り捨てたものは振り返らない、そういう人だ。もう会えないと想像しただけで、望美は体の一部をもぎとられるほどの苦痛を感じるのに。
 では、ここに彼を留めておく? 逆鱗など壊してしまえばいい。時を跳躍する手段は、簡単に永遠に、封じることができる。
 そして愛する人が、日々、魂朽ちていくのを見ていろと?
「俺を、行かせてくれるな?」
 静かに願う声。
 だからこそ、いっそう胸をうがつ。
 そういえばずいぶん前になるが、こんなことがあった。
 知盛が高く澄んだあさぎ色の空を眺めていて―――望美が呼んだ声に振り向いた彼の顔には、彼女がこれまで目にしたことがないような、何とも言い表しようのない感情が映し出されていた。
 普段と違う彼の様子に、ぼんやり胸に浮かんだ不安に望美が声をかけようとした時――知盛が微笑を浮かべた。
 皮肉のかけらもないその笑みが、いつもよりやさしい気がしてうれしくて、そして彼の腕が彼女に向けて差し伸べられ……引き寄せられるまま抱擁に身をゆだねた望美がその表情の意味を問うことは、とうとうなかった。
 元いた世界とは時間も場所も繋がっていないあの空を、思えば知盛はどんな気持ちで見上げていたのか……。
 ある程度の時期までは、それなりのスリルも感興もあったのだろう、だが到達してしまえばこんなものかと感じてしまう。真に求めるものはここにはないと気づいてしまう。
 交錯する生と死、そのぎりぎりの限界に沸き立つ血。振り下ろされる刃の前に身を躍らす張り詰めた瞬間を欲してやまないその性(さが)。死が見えた刹那にこそ生を感じると語った彼の本質は、数年を経ても微塵も変わっていないのだ。
 望美も心のどこかで気づいていたのかもしれない。どれほど抱き合い、熱を分け合っても埋められない空虚が彼の中に生まれていたことを。誰よりも近くにいたからこそ……。
 でも気づいたとしても、いったいどうすればよかったというのだろう? 
 ささやかな喜びとやわらかな愛で幸福をつづっていこうとする人々とは、決して相容れることのない彼の生き様。平和に繰り返される日々に己を同化させることを拒み、嵐の中にこそ自分の居場所があると知っている。
 どのように退廃的に見えても知盛は結局、金の檻に飼われて安楽を貪るよりは、喉の渇きに自らの血を啜ることになろうとも、自身の欲する場所へ無心に歩んでゆく男だ。
 天翔る鳥を閉じ込めれば、力強い翼もやがては腐る。
 ただひとり彼の愛を受けた望美にすら補えないもの……それは、野生の獣としての知盛の矜持なのかもしれなかった。
 長い沈黙の後、望美はようやく顔を上げた。
「……うん」
 ひとこと発するだけで、心臓がきりりと音を立てた。ふるえないように手に力をこめ、いやに重く感じられる逆鱗を差し出した。
「あなたが強く願えば、この逆鱗はあなたをあなたの望む時空(とき)へ連れて行くから……」
 それでも意外なほどしっかりした声が出たことに、望美は自分でも驚いていた。逆鱗を受け取り知盛はうなずいた。
「……礼を言う」
 だがそれに返答することなく、望美は黙って服を身に着け始めた。帰り支度をする望美を、彼は引き留めようとはしなかった。
 背後から白のカーディガンを着せかける知盛の指が彼女の腕に触れ、数瞬、素肌の上に留まった。そのあとそっと両肩に置かれた手が腕へとかすめるように撫で下ろし、うなじのあたりに吐息のようなひそやかな空気の揺らぎを感じる。それだけで望美の体は熱を持ちかけたが、それ以上続けることなく知盛は彼女から離れた。
「家まで送る」
「平気。ひとりで帰れるから。タクシー呼ぶよ」
「……送らせてほしい」
「ううん。あなたがいないことに慣れなくちゃいけないから」
 皮肉ではなく普通に言ったつもりだったが、知盛の顔が一瞬しかめられたのがわかった。しかし逆鱗を手にした以上、彼がこの世界に長く留まっていることはないだろう。これが別れになると望美は思った。
 マンションの玄関ででもタクシーを呼ぶつもりでいたのだが、知盛は怒ったように背を向け、すでにタクシー会社に電話をかけている。
「すぐ来るそうだ。それから……持っていけ」
 望美のバッグに何枚かの札を突っ込んだらしい。望美は好きにさせておいた。反対する気力はなかったし、今さら心配する知盛がおかしくもあった。
「ありがとう。じゃ、行くね」
 足元がふらつく気がしたが、とりあえずはふつうに歩けるようだ。エレベーターに乗り後ろを振り返ると、知盛はいつもと同じ、冷たいほどに整った顔立ちでこちらを見据えている。何を考えているのか、そこからは読み取れない。閉じはじめた扉に思わず「開」のボタンに手をかけ、何と言おうと迷っていると、ようやく知盛が口を開いた。
「……望美」
 また、沈黙。望美は頭に浮かんだ一番ありふれた別れの言葉を口にした。
「……さよなら」
 知盛の答はない。望美は苦労しながら唇の両端を上げてみせた。
「元気でね」
「……ああ」
「好き嫌いは駄目だよ?」
「……わかっているさ」
 ぶっきらぼうに発し、じっと見つめてくる知盛から何とか視線をはずして、少しおぼつかない手で扉を閉めるボタンを、続いて一階のボタンを押した。扉の向こうに彼の姿が消えていく。
 だが扉が閉まるやいなや、望美はぐったりと頭を前にもたせかけた。床に崩れ落ちてしまいそうだ。ショックが大きすぎて、まだ現実感がない。
「なんでこんなに簡単にさよならなの……」
 ここで情熱的にキスを交わしたのも、ほんの何時間か前のことだった。でも知盛はその時にはもう、別れを決めていたのだ。……違う、それどころではない。ずっと前から、ひとりで元の世界に戻ることを決意していた。
 彼女を愛していないわけではない。けれど知盛は彼女以外のものを選んだ―――。




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